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著者廣畑研二さんによる『水平の行者栗須七郎』を語る。
第一回の記事が「2007年2月」の記事にアップされています。ブログURLからアクセスをした方は、そのまま下にスクロールしてください。この記事単独頁からアクセスをした方は左のコンテンツ、2007年2月からアクセスをしてください。 『水平の行者栗須七郎』 廣畑研二著『水平の行者栗須七郎』紹介 futei 後に成人して作家となった鄭承博は水平道舎の書生の一人であった。 栗須七郎の名は従来の水平運動史に関わる書籍でもごく簡単に出される程度であった。それは『水平社伝説からの解放』朝治武、黒川みどり、関口寛、藤野豊共著(かもがわ出版、02年刊)、 『差別とアナキズム―水平社運動とアナ・ボル抗争史』宮崎晃著(黒色戦線社、75年刊)においても例外ではなかった。 前者は「水平運動史の評価軸の変遷、従来の研究では共産主義運動を軸にした運動史が中心で各地域での水平運動の多様性の無視、アナキズム派や独立派の研究の遅れ、組織内の女性差別、民族差別意識、戦争責任」に関し整理しつつ問題を提起している。 そして栗須の研究がこれまで「放置」されていた経緯が多少なりとも理解できるが、その同書でも栗須に関しては水平運動「独立派」として研究がこれからであると、触れられているだけである。 後者は二〇年代、三〇年代の水平運動を同時代の活動家であったアナキスト、宮崎晃が運動紙誌復刻版を参照し、また当時の同志への書簡による問合わせで検証しつつ著しているが、「独立派」栗須と活動を共にしていたアナキスト同志たちから栗須の名を聴く機会を得ていなかったようだ。 その栗須の評伝が一昨年『水平の行者 栗須七郎』として新幹社から刊行され(廣畑研二著06年8月 発行519頁A5判 六〇〇〇円)私も栗須の全体像を学ぶ機会を得た。 栗須の生涯を同書の巻末略年譜から抜粋する。 栗須は1882年、和歌山県に生まれる。98年、部落出身という出自が知られ一年で教員を辞す。04年、日露戦争時、看護手として従軍。08年ころから宗教書を読みあさ り、15年に郷里で差別事件が発生し村長糺弾闘争を指導する。 翌年、堺利彦が『新社会』に栗須の闘争を紹介し交流が始まり20年には「社会主義者同盟」に入会。22年、水平社創立後の活動に加わり九月に小冊子『水平社とは何か』を執筆、刊行。以降、23年『水平行者』を始めとして発禁処分が続くなか水平運動のために著作の刊行が続く。28年以降は冒頭に記した「水平道舎」の時代である。 水平運動のアナキストと栗須との関連では北井正一の名があげられる。1899年、新堂村生まれ、22年結成の河内水平社(のちの新堂水平社)の初代委員長、翌年8月の大会に栗須七郎を呼び、24年から大阪府水平社の執行委員として栗須を中心とする『水平線』『西浜水平新聞』『大阪水平新聞』の編集発行に尽力、25年ころから新堂がアナ派活動家の拠点となったのは「北井が運動のために私財を投入するという熱意のため」と評価されている。 もう一人、関係が深かった石田正治は25年九月『祖国と自由』発行人として拘留され、同年栗須七郎の『大阪水平新聞』刊行に北井正一らと協力。新堂水平社幹部として検挙、27年七月大阪府水平社解放連盟を結成。(『日本アナキズム運動人名事典』参照) 本書では25年、新堂水平社主催の「社会問題夏期講習会」の講師として朝鮮のアナキスト高順欽、崔善鳴も紹介されている。 著者、廣畑さんは支配層の「言葉」の支配に対抗する力をもつものとして、「人間性原理の覚醒」という水平社第一次「綱領」の「言葉」、「徹底糺弾」という「言葉」を水平運動の基本理念、行動理念と定義し栗須の思想を理解しようとした。また水平運動史研究への姿勢は「独立派」とか「アナ派」というレベルで括る次元ではなく「本来の水平運動」に依拠している。 本書で論じられている事項は栗須の生きた時代とつながり多岐にわたる。兵役忌避と海外移民、島崎藤村の『破戒』、切支丹とハンセン病患者迫害、大逆事件等である。また高嶋三治にも言及があり、「香具師を含む行動力あれる民衆の反逆のエネルギー」と民衆のネットワークにも触れている。 栗須の著作『水平行者』に関して、1923年、金子文子、朴烈の二人が治安警察法で囚われる二ヶ月前の6月30日に発行した『現社会』四号に、広告が掲載されている。 亀田 博 『トスキナア』誌掲載 金子文子の生き方 読書三到・アナキズム #
by sui-hei
| 2008-04-16 21:15
栗須研究を思い立って鄭承博(チョン・スンバク)先生にインタビューしたのは、7 年前のことになる。戦時下の大阪西濱で、朝鮮人少年を擁護・育成した寺子屋「水平道舎」がなにゆえに存在しえたのか?全国水平社はおろか、あらゆる社会運動が閉塞させられた戦時下においてである。この疑問が栗須研究の出発点であった。
戦後研究者は誰ひとりとして、「水平道舎」の存在に言及することがなかった。戦後の水平運動史研究は、全国水平社以外の草の根の解放運動や、在留朝鮮人支援活動には関心を持たなかったのである。「水平道舎」に初めて光をあてたのは、「水平道舎」生き残りの書生である鄭先生であった。しからば、「水平道舎」の謎は鄭先生に聞く以外に解くことができないではないか。そう思って夜行バスに飛び乗ったのであった。 すると、返ってきた言葉は意外なものだった。鄭先生曰く、「ぼくは、水平道舎時代の栗須先生の人となりは知っている。だけど、先生の思想は先生の本を読まなければ分からない」。夜行バスを乗り継いで東京から淡路島までやって来て得た成果は、「答え」ではなく「答えの解き方」であった。 そうだ、栗須研究に近道はない、誰かに「答え」を教えてもらうのなら、それは研究とはいえない。資料を集め、資料の検証と考証を重ねるという努力をせずに、先行研究のあと追いをしたり、関係者の証言を拾い集めるだけならば、21世紀になって栗須研究を志す意味がない。本書が人物評伝でありながら、縁故者の回想や証言をいっさい封印した理由はここにある。 左:横山雪堂 右:栗須七郎 1923年秋西濱。横山は筆禅の書仙と呼ばれた孤高の書道家。横山が関東大震災の難を逃れて大阪に来たときに撮影された。中央の墨蹟は、横山の筆で「神人不二」(神と人は二つならず)。これは、創唱宗教家宮崎虎之助の宗教思想に基づく言葉である。 鄭先生のこの戒めから、私の栗須研究は始まった。遠くて困難な道のりを予感させる始まりであった。だが、幸いなことに、行く先の分からない航海ではない。目的地は「水平道舎の意味」である。問題は、研究の方法と手がかりにある。栗須研究にとって、戦後の水平運動史研究はいっさい参考にはならなかった。 戦後研究は、親鸞の浄土真宗では般若心経を唱名しないという宗教的事実に注意を払わずに、般若心経を唱名する栗須を親鸞主義者と定義してきた。このような初歩的誤解にさえ疑問を呈した戦後研究者はいなかった。水平運動史研究者に仏教徒はいないのだろうか。マルクス曰く、「すべてを疑え」。しかし、先行研究に束縛されない自由な研究の旅はまた、同時に狭くて遠い道のりでもあった。 水平道舎書生の鄭承博と白昌林(1944年2月14日撮影)。白昌林の日本名は白原成晃。当時、旧制上ノ宮中学校在学。その後の消息は分かっていない。 第2回●狭くて遠い道を歩むべし #
by sui-hei
| 2007-02-18 20:06
陸の旅の近道には落とし穴がある。海の旅の近道には座礁の危険がある。栗須研究の近道には先行研究という迷路がある。そしてこの迷路には出口がない。鄭先生とマルクスの教えに従って、近道をたどるという誘惑を振り切ったならば、まずは栗須の著作と資料を蒐さなくてはならない。これが航海の羅針盤にもなれば、動力にもなるはずである。
ところが、その資料の手がかりが乏しい。西濱の「水平道舎」は大阪空襲で焼失したため、資料が遺族のもとにもほとんど残っていない。本書で、山川均から栗須に発信された私信を使用することができたのは、山川が自身の控えを残していたからである。「水平道舎」には多くの書籍や書類があったため、大阪空襲でひときわよく燃えたとは、往事を知る古老の語り草である。 水平道舎集合写真1940年頃。前列中央栗須七郎、左妻元枝、右娘文子、前列右端金達亮、後列右端鄭承博、他の少年達の姓名は特定できないが、全員朝鮮人である。 結論から言うと、栗須が最初に発行したリーフレット『水平社とは何か』(1922年9月)は、水平運動初の発禁処分を受けたまま原本が未だに発掘されていない。次に栗須が発行したパンフレット『水平運動の趣意』(1923年6月)もまた発禁処分を受けて、その原テキストを発見した先行研究者はいない。さらに、栗須の代表作『水平の行者』(1923年7月)もまた発禁処分を受けて、その初版原本は未だに発掘されていないという有様である。オリジナル原稿の控えはあっただろうが、それもまた大阪空襲で焼失したのである。 これらの栗須の手になるリーフレット、パンフレット、単行本にはすべて「水平運動初の発禁文書」という形容詞が冠される。つまり、見方を変えれば、水平運動史における最も初発の思想闘争がすべて未知のまま封印されてきたのである。これでは栗須研究はおろか、水平運動史研究そのものが成り立たないではないか?戦後研究は、いったい何を手がかりにして研究してきたのか?先行研究者に失礼とは承知しつつ、戦後研究を迷路に迷う迷子に喩える理由はここにある。栗須研究に着手してしばらくは、星も見えない暗夜を歩く思いさえしたものである。 しかしながら、伏せ字や発禁という思想統制は、検閲制度の産物である。警察作成資料を検閲する警察は存在しないから、警察資料には社会運動を視察する警察認識が明瞭に示される。民衆と運動を敵視するあまり誤った記述も多々あるが、検閲とは無縁のフリーハンドで書かれたところに意味がある。利用の仕方次第では、警察資料は有力な歴史資料になりうる。社会運動史研究では、運動側資料が乏しいので、この警察資料の扱いが問題になる。 大切なことは、その警察資料と警察認識を検証し、考証して利用することである。本書でも引用した、たいへん面白い警察資料を一例紹介しよう。栗須が、東京で代表作『水平の行者』出版の目処をつけ、帰阪したときの視察報告である。この警察資料は大阪府知事から奈良県知事に宛てられた通報である。当然に、作成したのは大阪府警察部特高課。「特秘」という分類記号が、特高課作成資料であることを示す。文面の読み方によっては、いかようにも解釈することができる。読者はいかなる感想を抱くであろうか。 「水平社員ノ動静ニ関スル件」特秘 第10259号 大正12年6月25日 大阪府知事 客月二十五日以降宣伝ノタメ関東方面旅行中ナリシ大阪水平社本部首脳栗須七郎ハ本月二十一日正午帰阪目下在宅中ナルガ仝人旅行中ノ動静ヲ内査スルニ仝人ハ最初東京附近及埼玉県地方ニ於テ暫時宣伝ニ従事シ其ノ後本月上旬ヨリ神心鍛錬ノ目的ニテ上州赤城山ニ祭礼セル不動明王神社ニ参籠仝山赤城瀧ニテ荒行ヲナシタル趣ナルカ今後更ニ奈良県大台ケ原及釈迦ケ嶽ニ参籠同様修業ヲナス旨語リ居レリ 尚這般奈良県下ニ於ケル争闘事件ニ連座収監中ノ処今回責付出所セル駒井喜作、泉野利喜蔵ノ両名モ来社シ居タルカ仝日午後二時頃夫々郷里ヘ帰省セリ而シテ大阪水平社栗須七郎楠川義久(中略)各開催ノ予定ナル大会等ニ応援弁士トシテ出馬スルヤニ付キ相当注意中ナリ 文面を額面通りに読むならば、「水国争闘」という大事件の直後にもかかわらず、栗須は赤城山で瀧行に励み、帰阪後も奈良県の釈迦ケ嶽に参籠すると言っている。赤城山も釈迦ケ嶽も、ともに修験道の行場である。おまけに、赤城山は講談でいうところの国定忠治隠れ里である。「行者」と形容される栗須にはふさわしい設定となる。これでは、栗須が水平社幹部であることさえ不思議に思われる。 栗須を「科学的な思考に立脚しない教祖的行者」(北原泰作)と一笑に付し去った評価は、このような資料を無批判に引用することでなされることが多い。「科学的な思考に立脚しない」のは、北原泰作当人のことである。 しかし現実には、栗須の上京目的は、先に言及したパンフレット『水平運動の趣意』ならびに単行本『水平の行者』を発行することであった。そして、帰阪後に赴いたのは、奈良県の釈迦ケ嶽ではなく、神戸番町水平社大会と奈良県辰市村青年水平社大会である。したがって、この警察文書を信用のおけないものとして一笑に付し去ることも可能である。 ただし、この資料をさらに考証するならば、虚実の見極めができるだけでなく、栗須の上京と帰阪の期日まで明らかになって、駒井と泉野が釈放挨拶に出向いたことも明らかになる。さらに、大阪府の特高警察が完全に栗須に欺かれたということが分かる。尾行を欺くための方便を、このように大まじめに報告させた栗須の機略は痛快ではないか。 警察は、検閲制度によって栗須の初期著作をすべて抹殺した。しかし、栗須の人物像を修験道行者という鋳型に嵌めこむことによって、自らもまた栗須の実像を見誤ることになったのである。 このように、警察資料は誰も検閲しないから、虚実が入り乱れ、視察の精粗にもムラがある。綿密な検証と考証を重ねることによってこそ、新しい史実の発見につながることがある。それは運動側資料の検証についても同様である。否、むしろ検閲との対抗関係を余儀なくされる運動側資料にこそ検証と考証が必要といえる。栗須研究は、運動側資料と警察資料の両者を発掘する作業によって出発点に立ったのである。 第3回●警察資料の探索 #
by sui-hei
| 2007-02-17 20:18
さて、水平運動初の発禁文書『水平社とは何か』は、未だに原本が出現しないけれども、テキストは辛うじて残されていた。内務省警保局調書に、発禁リーフレットの本文が筆写されていたのである。ただし、その調書は戦後米軍に押収されたまま日本に返還されていないので、マイクロフィルムでそのテキストを拾うことになる。いわゆるMOJファイル(Microfilm Orien Japan)である。すると、検閲によって隠された思想闘争の軌跡は、警察資料を発掘することによって明らかにすることができるのではないか。そうして、私の警察資料を探索する研究が始まった。
敗戦時に、内務省と外務省が膨大な警察資料と軍事資料を焼却したことはよく知られている。そして、焼却ができなかった残余の資料が米軍に押収され、W.D.C.(Washington Document Center)という文書戦利品センターに集約された。L.C.(Library of Congress)という略称で知られる米連邦議会図書館が所蔵する日本の警察資料は、こうして蒐集されたものの一部である。 そして、敗戦によって明るみにされた膨大な文書群の一つが「外務省記録」である。これは、戦前期においては存在そのものが機密事項であった。米国が一部をマイクロ化して公表したために存在が知られることになったのである(一部といっても、2,000リールを越える)。幸い大部分の原簿が日本に返還されたので、1972年から一般に公開されている。ただし、一部は返還されておらず、返還されていない資料の中には、「韓国併合」条約書原本のような歴史的重要文書が含まれる。また簿冊目録(『外務省記録総目録』)は、1992年になって初めて刊行された。 本書『水平の行者 栗須七郎』で使用した水平社同人によるロシア移民計画に関する警察資料は、この「外務省記録」から発見したものである。「外務省記録」は、すべてが外交資料とは限らない。在外領事館と本省間の往復文書だけではなく、国内政府他省庁との往復文書もすべて保存しているので、内務省警保局や警視庁等の警察資料も多数存在する。朝鮮総督府、関東庁、台湾総督府の各警務局資料や在外領事館警察資料にも夥しい量がある。 もちろん、「外務省記録」のうち「昭和」期の警察資料と軍事資料は大部分が焼却された。私がこれまでに調べた範囲では、約18,000簿冊が失われている。それでも、人事資料を除いて約40,000簿冊が現存する。1 簿冊には、多い場合で200点程度の文書がファイルされているから、1 簿冊平均50点とすると、少なく見積もっても200万点の機密資料がある。所蔵する外交史料館でも、資料総点数をカウントしたことがない。否、できないと言った方がよいだろう。現在閲覧可能な40,000簿冊すべてを実査した研究者も、おそらくいない。1 日に10簿冊を実査しても、4,000日を要するからである。 そこで、1997年から、文書の画像データ化作業とWEBでの公開が開始された。現在までに撮影が完了してWEBで閲覧できるようになった資料は、全体の約 2割である(WEBサイト・アジア歴史資料センター)。 http://www.jacar.go.jp/ 残り 8 割は、画像化作業が完了するまでは、外交史料館に出向いて実査する以外に閲覧の方法はない。私が存命中にすべてを実査することができるだろうか。 また、「外務省記録」と対をなすはずの「内務省記録」については、その存在は公式にも非公式にも認められていない。同じく、1997年から警察庁所蔵資料の一部が国立公文書館に移管されて画像化作業が進められているものの、「内務省記録」の輪郭をうかがわせる分量ではない。ただし、この警察庁移管文書の中に「水国争闘」に関する奈良県警察部資料が 1点あったので、本書でも利用して、別に資料集の一部として復刻した(『戦前期警察関係資料集』第1巻「初期水平運動」不二出版)。 ともあれ、こうしてあらゆる警察資料群を探索する過程で、水平社のロシア移民計画にもたどりついた。そして、栗須評伝を完成させる前に、2 つの警察資料集(『1920年代社会運動関係警察資料』、『戦前期警察資料集』ともに不二出版)を編集して刊行するという、遠回りといえば遠すぎるほどの迂回をして「水平道舎」の意味を探る旅は佳境を迎えることになった。 警察資料を探索しようとした動機は、検閲によって「隠された栗須の言葉」を発掘することであった。検閲によって栗須の思想が隠蔽されたのだから、その検閲制度すなわち警察資料の発掘に挑まなくてはならない。単純ではあるが、困難な道でもある。もしも、先行研究をなぞるという安易な近道を選んでいたとしたら、今も迷路に迷い込んだまま「水平道舎」の存在理由をたずねるという志は遂げられなかったであろう。 奈良県警察部編 水国争闘調書「水平社對國粋會騒擾事件」(1923年)。これは、1997年に警察庁から国立公文書館に移管されたものである。 第4回● 2 つの発見 #
by sui-hei
| 2007-02-15 20:26
警察資料を探索すると同時に、運動側原資料の探索も進めた。7 年間の栗須研究で、もっとも印象深い発見が 2 つある。1 つは、作家大月隆仗(おおつき・たかより)の発見。もう 1 つは、発禁パンフレット『水平運動の趣意』原テキストの発見である。
大月隆仗は、栗須と同年生まれで、同じく日露戦争に徴兵されて三度も重傷を負った兵卒である。復員後に、偶然にも栗須と同じ長屋に下宿して「哲学館」(現在の東洋大学)に通うことになる。この学生時代に書いた従軍体験記『兵車行』(1912年)が成功して、作家・評論家をめざすことになった。大月は、栗須が負傷した「沙河の会戦」でも負傷したので、所属部隊は違えど、栗須の戦友と言うべきだろう。 書影は戦記名著刊行会が改題復刊した1931年版。 古書店で見つけたこの従軍体験記の初版本奥付を見たところ、 5 刷であった。しかも、初刷りから 2 週間しか経っていない。発売後 2 週間で 5 刷とは、大ベストセラーである。その後、何度も版型をかえて出版されているから、大月はこの一作で世に出たと言ってよいだろう。日露戦争の戦勝気分が生み出した戦記読み物である。 印象深い発見というのはこの従軍体験記『兵車行』ではなく、大月隆仗が、水平社創立以前の栗須をモデルにして、私小説を書いていたことである。主人公は大月で、その友人が栗須という設定になる。執筆したのは1920年。この私小説は、豊橋の製糸工場で女工に労働争議を煽動した廉で、栗須が工場主に追放されたばかりか、警察官にも追われたため、大月を頼って帰京するシーンから始まる。栗須の口述体験談を、大月が筆記して脚色したのである。小説の表題は「憑き物」。栗須の真率さを、シニカルに生きようとする大月にとっての「憑き物」に喩えたのである。 この「憑き物」を収めた短編小説集の表題は『嗜慾の一皿』(一人社)。古書店では15,000円の値札がついていたので購入を諦め、国会図書館所蔵本をむさぼるように読んだ。まぎれもなく水平社創立前の栗須を描いたモデル小説であった。登場人物が変名のため、過去の研究史では発見されなかったのであろう。 のちの水平社幹部が、創立前にすでに小説のモデルになっていた例はもちろん他にない。他の社会運動分野でも極めて珍しい例といえよう。20歳代の青年幹部が多いなかで、創立を満40歳で迎えた栗須ならではのことである。 もう 1 つの重要な発見は、発禁パンフレット『水平運動の趣意』原テキストを発見したことである。このパンフレットは、一度発禁処分を受けてから改題が施された検閲通過本(『水平運動の精神』)が刊行されたために、戦後研究では、原テキストのどの部分が検閲に触れたのかが検証されなかった。改竄された検閲通過本が研究素材となってきたのである。 80年代末に、いちど先行研究者が原テキスト本と検閲通過本の異同解明に挑戦したのだが、テキストの改竄部分を特定することができなかった。ただ、解明できなかったことはやむを得ないとしても、両者のテキストに異同はないと判断して、改題することだけで再度の検閲を通過したと断定してしまった。そのため、私が再度の解明に挑むまで、原テキストの解明に挑戦した研究者はいなかった。 つまり、その先行研究者は、検閲制度と検閲係官を甘く見たために、栗須の思想闘争をも甘く見てしまったのである。あるいは、栗須の思想闘争を甘く見たために、検閲制度をも甘く見てしまったのかも知れない。この事実から得られた教訓をマルクスの格言にならって言い換えるならば、「先行研究のすべてを疑え」ということになる。そして、私が発見した原テキストは、改竄テキストとは180度異なる主張を展開していたのである。 ただし、その改竄テキストとの異同を見抜けなかった先行研究者の名誉のために言うならば、この改稿過程を解明することは至難である。何となれば、テキストの改稿は、検閲に触れた単語を同一文字数の反対語に置き換えるという手法をとっていたからである。これならば、改版版組の手間暇も最小限にすることができる。検閲係官もさぞや感服したことであろう。 両書を 1 行 1 文字ずつ比較対照させなければ、テキストの異同を発見することはできない。それほど巧妙な改作が施されていた。要点となる単語の幾つかを反対語に置き換えれば、民衆による叛逆の言葉が、臣民による天皇への服属の言葉に転じてしまう。戦後研究者の注意力が乏しかったというよりも、戦前の検閲制度が、70年間も研究者を欺いてきたと言う方が適切であろう。本稿においても、要点となる単語の幾つかを反対語に置き換えれば、まったく異なる文書ができるだろう。 ともあれ、検閲によって改竄された思想を運動側のオリジナル思想と誤解させられて来たのだから、戦後研究は長く検閲制度の手中にあったと言わざるを得ない。私が解明できた理由は、検閲を侮ることなく、検閲に迫ろうとしたからである。ここにおいて、私は検閲による言葉の支配から自由になることができた。 そして、栗須に替わって、この検閲の後始末に携わったのは、栗須のモデル小説を書いた大月隆仗であった。水平運動はおろか社会運動とは一線を画した大月ではあったが、日露戦争の戦友たる栗須の真率さに「憑かれた」ため、その出版活動には力を貸したということである。この 2 つの発見によって、栗須研究は大きな前進を遂げることができた。検閲との対抗関係を検証することによって、栗須の「隠された言葉」を発見することができたのである。 そこから先の栗須研究は、もはや先行研究を批判的に検証する必要もなくなった。批判的に検証する対象は、検閲制度である。本書『水平の行者 栗須七郎』では、先行研究批判はほとんど書かなかった。その理由は先行研究者に配慮したのでも、無視したのでもない。研究の方法も、研究の対象も、先行研究とはかけ離れてしまったからである。 たとえば、ある研究者は、根拠資料も示さずに、栗須七郎が1940年の「大和報国運動」に参加したと書いていた。だが、そのような同時代の一次資料はどこにも存在しない。その研究者には、栗須七郎と栗須喜一郎の区別がついていなかったのである。あるいは、検閲制度が作り上げた栗須像にとらわれて、栗須が「大和報国運動」に参加しないはずはないという先入観に支配されていたのだろうか。 第5回●偽りの声は大きく真実の声は小さい #
by sui-hei
| 2007-02-14 20:28
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