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陸の旅の近道には落とし穴がある。海の旅の近道には座礁の危険がある。栗須研究の近道には先行研究という迷路がある。そしてこの迷路には出口がない。鄭先生とマルクスの教えに従って、近道をたどるという誘惑を振り切ったならば、まずは栗須の著作と資料を蒐さなくてはならない。これが航海の羅針盤にもなれば、動力にもなるはずである。
ところが、その資料の手がかりが乏しい。西濱の「水平道舎」は大阪空襲で焼失したため、資料が遺族のもとにもほとんど残っていない。本書で、山川均から栗須に発信された私信を使用することができたのは、山川が自身の控えを残していたからである。「水平道舎」には多くの書籍や書類があったため、大阪空襲でひときわよく燃えたとは、往事を知る古老の語り草である。 水平道舎集合写真1940年頃。前列中央栗須七郎、左妻元枝、右娘文子、前列右端金達亮、後列右端鄭承博、他の少年達の姓名は特定できないが、全員朝鮮人である。 結論から言うと、栗須が最初に発行したリーフレット『水平社とは何か』(1922年9月)は、水平運動初の発禁処分を受けたまま原本が未だに発掘されていない。次に栗須が発行したパンフレット『水平運動の趣意』(1923年6月)もまた発禁処分を受けて、その原テキストを発見した先行研究者はいない。さらに、栗須の代表作『水平の行者』(1923年7月)もまた発禁処分を受けて、その初版原本は未だに発掘されていないという有様である。オリジナル原稿の控えはあっただろうが、それもまた大阪空襲で焼失したのである。 これらの栗須の手になるリーフレット、パンフレット、単行本にはすべて「水平運動初の発禁文書」という形容詞が冠される。つまり、見方を変えれば、水平運動史における最も初発の思想闘争がすべて未知のまま封印されてきたのである。これでは栗須研究はおろか、水平運動史研究そのものが成り立たないではないか?戦後研究は、いったい何を手がかりにして研究してきたのか?先行研究者に失礼とは承知しつつ、戦後研究を迷路に迷う迷子に喩える理由はここにある。栗須研究に着手してしばらくは、星も見えない暗夜を歩く思いさえしたものである。 しかしながら、伏せ字や発禁という思想統制は、検閲制度の産物である。警察作成資料を検閲する警察は存在しないから、警察資料には社会運動を視察する警察認識が明瞭に示される。民衆と運動を敵視するあまり誤った記述も多々あるが、検閲とは無縁のフリーハンドで書かれたところに意味がある。利用の仕方次第では、警察資料は有力な歴史資料になりうる。社会運動史研究では、運動側資料が乏しいので、この警察資料の扱いが問題になる。 大切なことは、その警察資料と警察認識を検証し、考証して利用することである。本書でも引用した、たいへん面白い警察資料を一例紹介しよう。栗須が、東京で代表作『水平の行者』出版の目処をつけ、帰阪したときの視察報告である。この警察資料は大阪府知事から奈良県知事に宛てられた通報である。当然に、作成したのは大阪府警察部特高課。「特秘」という分類記号が、特高課作成資料であることを示す。文面の読み方によっては、いかようにも解釈することができる。読者はいかなる感想を抱くであろうか。 「水平社員ノ動静ニ関スル件」特秘 第10259号 大正12年6月25日 大阪府知事 客月二十五日以降宣伝ノタメ関東方面旅行中ナリシ大阪水平社本部首脳栗須七郎ハ本月二十一日正午帰阪目下在宅中ナルガ仝人旅行中ノ動静ヲ内査スルニ仝人ハ最初東京附近及埼玉県地方ニ於テ暫時宣伝ニ従事シ其ノ後本月上旬ヨリ神心鍛錬ノ目的ニテ上州赤城山ニ祭礼セル不動明王神社ニ参籠仝山赤城瀧ニテ荒行ヲナシタル趣ナルカ今後更ニ奈良県大台ケ原及釈迦ケ嶽ニ参籠同様修業ヲナス旨語リ居レリ 尚這般奈良県下ニ於ケル争闘事件ニ連座収監中ノ処今回責付出所セル駒井喜作、泉野利喜蔵ノ両名モ来社シ居タルカ仝日午後二時頃夫々郷里ヘ帰省セリ而シテ大阪水平社栗須七郎楠川義久(中略)各開催ノ予定ナル大会等ニ応援弁士トシテ出馬スルヤニ付キ相当注意中ナリ 文面を額面通りに読むならば、「水国争闘」という大事件の直後にもかかわらず、栗須は赤城山で瀧行に励み、帰阪後も奈良県の釈迦ケ嶽に参籠すると言っている。赤城山も釈迦ケ嶽も、ともに修験道の行場である。おまけに、赤城山は講談でいうところの国定忠治隠れ里である。「行者」と形容される栗須にはふさわしい設定となる。これでは、栗須が水平社幹部であることさえ不思議に思われる。 栗須を「科学的な思考に立脚しない教祖的行者」(北原泰作)と一笑に付し去った評価は、このような資料を無批判に引用することでなされることが多い。「科学的な思考に立脚しない」のは、北原泰作当人のことである。 しかし現実には、栗須の上京目的は、先に言及したパンフレット『水平運動の趣意』ならびに単行本『水平の行者』を発行することであった。そして、帰阪後に赴いたのは、奈良県の釈迦ケ嶽ではなく、神戸番町水平社大会と奈良県辰市村青年水平社大会である。したがって、この警察文書を信用のおけないものとして一笑に付し去ることも可能である。 ただし、この資料をさらに考証するならば、虚実の見極めができるだけでなく、栗須の上京と帰阪の期日まで明らかになって、駒井と泉野が釈放挨拶に出向いたことも明らかになる。さらに、大阪府の特高警察が完全に栗須に欺かれたということが分かる。尾行を欺くための方便を、このように大まじめに報告させた栗須の機略は痛快ではないか。 警察は、検閲制度によって栗須の初期著作をすべて抹殺した。しかし、栗須の人物像を修験道行者という鋳型に嵌めこむことによって、自らもまた栗須の実像を見誤ることになったのである。 このように、警察資料は誰も検閲しないから、虚実が入り乱れ、視察の精粗にもムラがある。綿密な検証と考証を重ねることによってこそ、新しい史実の発見につながることがある。それは運動側資料の検証についても同様である。否、むしろ検閲との対抗関係を余儀なくされる運動側資料にこそ検証と考証が必要といえる。栗須研究は、運動側資料と警察資料の両者を発掘する作業によって出発点に立ったのである。 第3回●警察資料の探索
by sui-hei
| 2007-02-17 20:18
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